報道機関に対しての不信感について

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献花の写真

先日、僕は安倍総理の国葬の儀の一般献花に行ってきました。半蔵門駅から麹町、四谷を折り返しと4時間半にわたる長き行列の中、献花に参加された周りの人からの声は、マスコミに対する怒りがにじみ出ていました。僕の後ろの後ろの方は大阪から来られていたようで、真後ろの茨城から来られた方とマスコミの偏向報道に対する怒りを語っていました。

国葬までのマスコミはこれまであたかも統一教会と安倍さんの関係を疑惑と煽り、国葬の儀は違憲だ違法だと煽り、税金の無駄だと煽り、声高に国民のすべてが一様に国葬に反対しているかの報道をして

国民は、国葬に反対している!宗教団体とずぶずぶ!

憲法違反だ!私たちの税金を使うな!

などと声高に騒いでいました。

それを見聞きしていた僕は、一部マスコミは今回もオリンピックの時と同様に国民という主語を使い自論を主張し、あたかも国民のすべてが反対しているかのような印象操作をしていて全くオリンピックの時と同じだなあと感じ、いざ国葬当日になれば騒いでいるのは声のでかい連中ばかりで、静かに安倍首相に弔意を表したい人も反対の人と同じようにある程度集まるだろうと実は確信しておりました。

並ぶだろうけども1時間程度で終えて帰路に着けるだろうと予想していましたが、いざ、献花に来てみると予想を裏切り結果4時間半も並ぶことになりました。案の定、反対している人は国民の一部で、他方で声を上げないだけの賛成派も存在し、実に僕と同じ思いの人がマスコミに対し静かな怒りを纏っていました。

現実を見ず対案も示さずにただただ批判だけを繰り返し、例えばコロナ禍で重大な局面化の国会においてもモリカケ問題を持ち出し、国会の審議を遅らせる野党。

一方、難題課題山積の国政において、現実を直視して経済や国際問題、安全保障など大切な問題に取り組み、成果は別として確実に歩を進めていく政治家であった安倍さんに感謝し、謝意と弔意を伝えたい気持ちをもった僕と同じ考えの方々がそこにはいらっしゃいました。

献花を終えすっかり暗くなったなか帰路の地下鉄の共同通信の動画ニュースでは、国葬の儀の反対デモのみが躍っていました。ニュースをみても献花に訪れた側の報道はほとんどされずに相変わらず反対派の声だけを拡声しているのを見て、偏向報道を肌身に感じた一日でした。

 

ここで、お勉強の時間です。

議院内閣制

日本は、言わずとしれた公職選挙により国民代表である国会議員を選び、国会議員(衆議院議員)の中から国の代表である内閣総理大臣を指名し、内閣は行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負い政治が執り行われる議院内閣制の民主主義の国です。

立法・行政・司法の三権は互いに牽制しあい、三権が分立しており、例えば時の政権に司法判断が捻じ曲げられない様に互いに独立して影響されないように図られています。

例えば、内閣総理大臣を指名するのは、立法の府である国会です。任命は天皇が行います。

最高裁判所長官を指名するのは、司法の府である内閣総理大臣です。任命は天皇が行います。

立法の府である国会議員を選ぶのは、我々国民です。天皇が議会の招集を行います。この国会議員を選ぶということを通して我々国民も政治に参画しています。

行政とは、立法により形成された公共の意思や目的に基づいて,国や公共団体の執行機関が業務を行うこと。
法の実現を目的として執行される国家作用。国家作用のうちから立法・司法を除いたもの。つまり、法律を作ること(立法・国会)と裁判をすること(司法)以外の広範囲な部分が、行政となります。

日本という国は、議院制内閣制度をとっており、衆議院と参議院の両議院の議員を国民1人1票の選挙をもって多数の票獲得を得た国民の代表である議員による国会をもって国民の懸案であるルール(法律)を作り、行政は、法律に縛られて様々な行政作用を執行しなくてはなりません。この法律に縛られるということで間接的に行政の暴走を抑えているわけです。

戦後70年間も続き、脈々と執り行われてきたルールです。ルールを変えたいのであれば、ルール変更を主張する国会議員を選挙で送り出すべきです。

行政活動には、法律による行政の原理というものがあります。行政の活動は法律に従って行わなければならないというもので

法律によってのみ法規を想像することができるという法律の法規創造性

法規とは、 国民の権利を制限し又は国民に義務を課す内容の法規範のことをいいます。

行政の活動は法律に違反してはならないという法律の優位

一定の行政の活動を行う場合には法律の根拠を必要とするという法律の留保

という原理原則に縛られているわけです。

そんな行政であっても、人間が行うことですから手続きを誤ったり、権利濫用により国民の権利侵害や義務賦課により違法または不当に国民に損害を与えることもあるわけです。その場合は、最終的に司法の判断を仰ぐこととなります。国民には救済の道が残されているわけです。

裁判所は、高度に政治的判断を仰ぐような事柄(軍事の事や国と国の条約に関しての事など)以外は、法律に則って、違法か合法かを判断するわけです。

そして今回の国葬の儀について、国内で4件ほど差止請求の訴訟が提起されました。結果としてどれも却下となっています。

それを不服として最終的に最高裁判所では棄却となっています。

因みに却下棄却は違うということをご存じでしょうか?却下とは、訴えるだけの理由がないために法廷に進むまでもなく拒絶するということです。棄却は、一応は訴える理由を認め、法廷で審議した結果、原告の負けということを宣言することです。

つまり今回の国葬反対の差止請求は、理由がない。国葬の儀は合法であるということになります。共産党の志位さんが、デモで国葬は憲法違反だと言っているのをテレビで拝見しましたが、全くの根拠もないわけです。

また、自民党と統一教会の関係を問題視して批判を繰り広げる連中にも違和感を感じます。統一教会と接点を持ったのは、何も自民党だけではなく、最近では立憲民主党の辻本さんの関与も報道されています。しかしながら辻本さん本人も自民党を批判していた訳ですから、本人自身統一教会と関わったという自覚がない訳です。

つまり政治の原理原則でも触れていますが、国会議員は選挙に勝たなければ自分の信念や仕事を実現することもできない訳で、票を獲得するためには講演や祝辞等の依頼があれば相手の素性も知らないまま依頼をお受けすることもあるという事です。

残念ながら巧妙に団体名を隠し、すり寄ってきた宗教団体に接点を持ってしまった議員もある程度いるという事実。教団の違法行為こそ責めるべきですが、教義についての内心の自由までは責めることは出来ません。そのような事実を踏まえた上で、何が問題でどうしたら今後なくすことができるかの建設的な議論をすることなく、一様に政敵である自民党だけに結び付けて批判を繰り広げる連中に腹立たしさを覚えます。

そして、一部の人たちはSNS上で、僕のような一介の行政書士にすぎない献花に参加した人に対し

活動家だ!

教団の動員だ!

などと言っていて、自分の意にそぐわない人を誹謗中傷する。マスコミは反対派の人の動向しか報道をしない。

反対の人もいて然りかとは思いますが、多様性を認めないのはどちらなのか?と思ってしまいます。

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